Dangerous Mind

Dangerous Mind

昨日の写真の草がもう刈り取られていた。
色んな人の生存期間が表になっているサイト(玉川和正さんという建築家の方がやっておられる人生のセイムスケールというサイト)をたまたま見つけて、自分と同じ29才のところを見ると、太宰治と心中した山崎富栄さんの名前がある。三鷹の駅前の屋台のうどん屋で太宰と知り合い、一月後、「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ちかけられ、一年後には入水自殺。そんな人生もあるのだなあと思い、自転車に乗って事件があった玉川上水へ。現場近くにはちょっとしたプレートのようなものが立ててあって、そこには太宰の名はあっても山崎の名はない。
今朝見ていたロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」の中で、銃殺される直前にドン・ピエトロ牧師は「死ぬことは難しくない 生きることが難しい」と言っていた。とても印象に残った。
それらの事柄とはあまり関係なく、今日はだいたい一日中オーバーダビングしていた。色んな時間や場所を一カ所にまとめて、それまで無かった時間を作り出す、このダビングという作業がとても好きだ。性に合っているのだと思う。音程が何度と何度で合う、とかだけではなく、トンネル内で拾った音に猫の鳴き声が合うとか、ストリートミュージシャンのドラムソロに地下鉄で叫んでた人の歌が合いそうで合わない、とか、そういう事が楽しい。別に楽音同士でなくても、要素と要素の間に協和、不協和というものがあって、しかし当然そこには統一的な理論があるわけではないので、全ての判断は結局のところ個人個人の趣味の問題なのである。そして、自分はロクに楽譜も読めなければ楽器も大して弾けないし歌も下手だけどそれでも恥じずに音楽を続けていられるのは、そういった統一され得ないけれども不確かに、雲のように存在する個人の趣味の集合としての美学の問題(長い)、のようなものに人一倍興味があるからなのではないかと思う。少なくとも今作っているソロの音源に関しては、そういう点で勝負しようとしている。
バンドの方では(いまのところ)楽器の音だけを使うので、話が少し変わってくる。音程がちゃんとあるものに関しては、美学の雲はだいぶはっきりしているし、それだけにわかりやすく逸脱する事もできる。なんというか、雲は既にあって、そこに近づいたり、離れたりしながら曲が出来上がっていく。最近の曲でやろうとしていたのは、別々の雲にそれぞれ近づいたり、離れたりしながら一つの曲を作り上げていくようなやり方だった。何かそういうものが新しく響くような感じがしたのだった。でも、バンドでの演奏というのはとても肉体的なものなので、練習しているうちに曲のコンセプトがどうとかよりも、気持ちよくやれるか、やれないか、みたいな事の方が重要になってくる。それは仕上げのために起こる第三の波のようなもので、そういう部分が出てきて、バンドとしての曲は完成されるような気がする。で、何が言いたいかというと、23日発売の極東コンピ2に提供した「遊星からの物体X」は、まさに上記のような各行程を経て作り出された曲で、完成までにかなり時間もかかったけど、おかげさまでとてもうまくいきました、是非聞いてくださいよということです。気に入った人はアルバムも乞うご期待。

極東最前線2

極東最前線2