Dangerous Mind

Dangerous Mind

画架の右手にポットと、その前に横たわる梨。ジッと二つの物体を眺め、それらを紙へ書き写す。
画の素人である私にとって、地上の物体というのは、見れば見るほどわけがわからないものだ。姿勢や首の角度が少し変わっただけで、以前見えていたはずの形が変化したり、消えたり、新たな要素が出現したりする。直線にはよく見ると曲線が隠れているし、曲線の中にも直線的な要素がある。今は鉛筆画だから良いが、ここに色調も加わってくると、複雑さの次元は段違いとなる。
デッサンを習ってみて、よく考えるのは、物の名前の重要さである。対象となる物体の長さの比率を取る時、その部分の名前を知っている場合、例えばリンゴであれば「ヘタ」だったり、あるいは「窪み」だったり、「接地面」であるとか、そういう風に名称のある部分については、イメージの記憶が持ちやすい。しかし、「向かって右側の部分を縦に3分割した時の2番目」とか、「ポットの蓋をとった時に見える内周のうちの外側」みたいな把握の仕方だと、イメージをキープするのがとても難しい。全体の長さが4で、そのうち「向かって右側の部分〜」が2.5だったとして、いざ画用紙に向かうと、その「向かって右側〜」というのは一体どこからどこまでの事なのか、自分の中で定義がかなり曖昧である事に気付く。もう一度物体を見ると、そうだよ、ここからここまでの事を俺は言ってるんだよな、大丈夫、と思う。で、もう一度画用紙に向かうと、もうサッパリわからなくなっている。ほんの数秒でも、イメージの記憶が持たない。そんな事をしているうちに、測ったはずの比率の数字の方があやふやになっていたりする。しかし、これが、具体的な名称のある部分だと、記憶の持ちが格段に変わってくる。「ヘタ」という部分について、ある程度確固とした定義が自分の中にあれば、イメージの記憶はそう簡単には薄れない。
音楽でいえば、ある音階を聞いた時にスケール名を知っている場合と、そうでない場合の認識や、記憶の持ちの話に似ている。個別の要素を組織としてグルーピングして、そこに名前をつけることで、人間は世界を切り分けて物事を把握するという話だが、確かに実体験として、そう思った。逆にいえば、対象物のパーツをうまく切り分けられないで、なんとなく全体と部分を交互に見ているような今の自分の状態は、言葉を持たない赤ん坊の認知の仕方に共通する部分があるのかも。
他にも時々、ふとしたきっかけで考えさせられるような瞬間があるので、少なくとも良い精神修養になっている。一つの物体を眺め続けて、紙に写し取るというデッサンという行為は奥深い。