Dangerous Mind

Dangerous Mind

大柴陽介

大柴陽介。
自分自身が覚えておくため、また格別に素敵な人間に出会ってしまった者が負うべき義務のようなものとして、出来る限り彼について覚えていることや、考えた事をここに書き残せたらと思っている。内容的に正確かどうか自信のない部分もあり、文中の出来事の順番も時々前後している。
でも大柴の音楽はまだまだこれから、いずれもっと大勢の人が聴くようになる。研究する人も出てくるかもしれない。その時に、何かの手がかりになればとも思い、記す。
また、このまま彼についての考えを整理できずにいると、自分の中のある部分が、彼と一緒に死んでいってしまうように感じていたりもする。
死者のことを書くという行為には、生者である自分が試されるような側面があり、受け取ったものを過不足なく記すことができるのかと思って、始めたばかりなのに、絶望的な気分になったりもしている。
まあでも気張ることなく、とにかく書き始めてみようと思う。

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大柴陽介の天才性は、一聴して明らかなものだったが、本人はシャイなのか、必要以上に人を煙に巻こうとして、録音物に極端なノイズを入れたりして、ちゃんと聴けなくしてしまったりする一面があった。
そうやって素の状態で聴かれるのを恐れていたのかもしれない。
誰しも若い頃は自意識過剰で、なかなか本来の自分を加工せずにはいられないものだが、彼はその加工の仕方が独特で、且つ極端だった。
時にはそれが芸術の域にまで昇華されて人を感動させたし、また時に多大な迷惑をかけるような事態も招いてしまった。
でも彼の素の部分、様々なかたちで表出する表現の核の部分にはいつも万人を、万事を許容するような大きな優しさのようなものが垣間見えていて、その優しさは音楽自体がその性質として備えている寛大さ、優しさに少し似ていたと思う。
そういう風に考えていたので、ある程度、歌詞や音が聴きやすい録音物さえできれば、彼の音楽は自然に多数に広がっていくと思っていた。
録音を手伝ったミッシング箱庭のアルバム「太郎」が、予想以上に良く仕上がって、自分の役目は終わり。それでその後は自然にうまくいくと思っていた。
でもなぜだろう、「太郎」はそんなに反応をもらえなかったし、大柴の音楽活動に弾みがついたりするような事もなかった 。
自分の信じるものは間違っていたのだろうかとも考えるけど、やはり今一度、いや何度でも世の中に問いかけてみたい。
自分には彼の残した音楽が今でも本当に面白くて、また本当に優しいもののように思える。残念ながら彼の代わりになれる人はどこにもいないし、本当にかけがけのない音楽家を失ってしまった。


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最初に会ったのは高円寺だったか、阿佐ヶ谷だったか、吉祥寺だったか。地方の進学校のような所を卒業して大学のために上京してきた自分は、せっかく親が入れてくれたその大学にもあまり行かずに、自主制作のカセットテープをお店に置いてもらい、あまりに世間知らずなので、いずれはそのカセットの売上で暮していけるようになる等と本気で考えていた。就職活動もせず、まあ良くいるタイプの頭でっかちで夢見がちな音楽青年の一人で、実際のところは地元に一人残した母親の仕送りに頼りきって生活している無力な若者だった。
しかしその頃、カセットの販売やライヴ活動を通じて、それまで学校等で知っている人達とは明らかに何かが違う人々に次々出会っていて(例えば小川てつオさんとか)、まずはその極めつけのような人物として大柴陽介の事を記憶している。
その頃、彼の通称は「バッファロー君」だった。もっこバッファローズとか、何かそんな名のバンドをやっていたのが由来だったと思うが、オオシバという本名より渾名の方が長くて言いにくいところが、まず新鮮に感じた。長髪で野人のような風貌で確かにバッファローと言われれば、アメリカ中西部等を連想させるようなその名前は良く似合っているように感じた。
その時その時で本人の中にだけ存在するストーリーの中を生きているみたいな所が彼にはあって、そのサイクルによって名前も変わり、ある時はyo-oshimaと名乗っていたし、大柴陽子の時もあったし、A柴(ドイツ語風にアーシバと読んだ)、アブラムシ35歳という時もあったらしいし、他にも幾つも変てこな名前を使い分けていたのだろうと思う。


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このバッファロー君と行く先々で遭遇するうち、彼のライヴを見ることになった。
場所は阿佐ヶ谷の公民館で、ライヴと言っても、何か他のバンドが演奏しているところに無理矢理飛び入りみたいな感じで入っていってて、そのバンドのメンバー半数くらいが当惑している中、マイクを握り「流行ってる〜、流行ってる〜」と歌っていたのだった。
何が流行っているのかと思っていると次の行で「アナルセックス流行ってる〜」と歌っていて、小学生みたいな歌だと思ったのだけど、その「流行ってる〜」のメロディがなぜか頭に残って、その時一回聴いただけなのに、いまだに思い出してしまう。当惑しつつもファンク寄りの演奏を続けるバックバンドと相まって、何かコントーションズみたいだと、私は思った。
なんでそんな変な歌詞なんですかと尋ねたら「だって流行ってるらしいよ」とか言って、別に答えになっておらず、大柴との会話のやり取りは大体いつもこういう感じだった。モデルや役者でも通用するような外見なのだが、その話し方は何か独特のふにゃふにゃした、歌っているような訛りのようなものがあり(真似するのは難しい)、はじめはそこにかなりのギャップを感じた。
その後、無力無善寺でのクサヤを焼きながら演奏するライヴや、メダカを飲みこんでから、もう一度戻そうとして、戻らなかったライヴ(これはメダカが可愛そうだと思った)、コンタクトマイクを装着した2匹のカメが登場するライヴなんかを見た。
思えばこの頃は生き物を音楽の現場に引っ張りだすのが彼の中で流行っていた時期だった。
舟久保さんに声をかけてもらって一緒に京都に行き、真夜中に山の中でライヴ(というか、何と言うか、一種の集いのようなもの)をしたときは、大柴と相方の田崎君が、素人にはただの絶壁に見える崖をヒョイヒョイ昇っていって全く姿が見えなくなってしまい、皆心配した記憶がある。
まあその時はとにかく得体の知れない変なやつだと思っていた。風呂に入らないせいで髪の毛が天然のドレッドになっていて、道を歩いている時に、それが一房ゴソッと抜けて、その抜けたドレッドをセメダインで電信柱に貼りつけたりしていた。ナマズみたいなヒゲを生やしていて、ボロボロのべスパに乗ってどこからともなく現れる。本人以外には絶対誰も着こなせないような物凄いファッションをしていて、これは少し後の話になるけどバドガールの衣装で街を歩いていて、それがいつの間にかAERAの記事になっていた事もあった。


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2003年4月、カニバリズムガンジーバンド/架空の教団の久保卓也が亡くなった。彼も本当に才能のある画家でミュージシャンで、あまりに若くて突然すぎる死に、皆ものすごく動転した。亡くなった数ヶ月後に彼の故郷の高知県で追悼の催しが行われて、東京からも10人くらいが電車で向かった。自分も演奏したはずだけど、内容は殆ど憶えていない。
この時大柴はどこかから捕まえてきたセミをステージ上から放して「音が重なっているのか」と繰り返していた。これは一体何なんだろうと思いながら見ていたのだけど、後から、卓也君がタワー吉田名義で描いた「漫画ディレイ」の内容を舞台上で再現し、彼をトリビュートしているのだという事を知った。このマンガはマスダが発行した雑誌「漫想」創刊号に掲載されていたもので、自分も深く関わり、何度も目にしていたものなのだが、ライヴを見ている時は自分の演奏のことでいっぱいいっぱいで、良くわかっていなかった。
この時から一見突飛に見えたり、ひたすら意味不明に思えたりする大柴の行動の背景には、実はちゃんとした理屈やストーリーが存在するのだという事が、自分にも段々とわかってきた。


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前後して、大柴は「オーラスゲーカンパニー」の主催者として団体を取りまとめようと躍起になっていた。これは多分一種のレコード会社というかレーベルみたいなものを構想していたのだろう。後にやや名称が短くなって「オーラカンパニー」となった。色んな事(例えば屋外フェスとか)を目論んでいたのだろうが、このカンパニーの実質的な活動は2枚組コンピレーションアルバム「omoshiro spot」を作って終わった。
この「omoshiro spot」を作るために阿佐ヶ谷にあった藤井洋平のアパートに何度か集まった。自分もいつの間にか「omoshiro spot」の制作部員みたいになっていたのだ。
この当時、2002年とか3年とかは、まだパソコンやDAWがそんなに普及していなくて、ちょっとした音声編集や、ディスクを焼いたりできる環境は珍しかった。その藤井君の部屋がオーラカンパニーの作業所となり、ミッシング箱庭の収録曲「それってファンシーボール」の関根さんのボーカルを録音したり、我々の収録曲「犬と人間」に、極端なエフェクトをかけたり、エイフェックスツインの曲をちょっとだけイタズラで混入させたり、後は普通にCDRを焼いたりしていた。
しかしそういった制作作業をちゃんとしている時間は少なくて、遊んでいる時間の方が長かった。ある良く晴れた日に、大柴がキャンプセットみたいなのを持ってきて、路上でカレーを作って食べた事を憶えている。
彼はアウトドア好きなようで、ステージ上にテントを持ち込むのが流行った時期もあったし、今年の5月に最後に会った時も家族や仲間達とキャンプ中だった。
また、当時大柴と藤井君は二人でジョン・ケージの英語の著書を日本語に訳そうとしていたりもして、わけのわからなさに本気で磨きをかけようとしているのだなと思った。


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しばらくして「omoshiro spot」が完成したのだが、何より大柴が手がけたアートワークに感動した。
コラージュされた様々なイラストの上に手書きのちっさい文字で何かコチョコチョと書いてあるのだけど、どこかデザイン的に秀でたものがあるように感じた。このラフな感じ、かっこつけない感じは、自分も影響を受けていつか真似したかったのだけど、似たようなことをやっても、どうしても違うもの、ただ単にみすぼらしくて汚らしいだけのものになってしまう。センスの問題なのかもしれない。
例えば恐竜の進化の図や、中国の顔面観相図などがコラージュされているのだけど、本人がビジュアルとして面白いとか、強烈だと思ったものをただ適当に寄せ集めたようでありながら、何かもっとダイレクトなかたちで、それらの図象を深層で理解しているように感じさせる部分もあって、それでいて、表面的な軽い感じは厳密にキープしながら配置されているように思えた。
ラフさとディープさが両方ありながら、あくまで表面的にはすごくラフに、ただただ限りなく軽くて、ユーモアがあるのである。
これは彼の音楽にも共通する特徴なのではないかと思っている。
しかし「omoshiro spot」は盤面のシールがやたらとゴワゴワしていてスロット式のプレイヤーでは再生できなかったり、一枚用のプラケースを強引にセメダインで張り合わせて2枚組みにしている関係で生産が大変だったり、時々なぜか藤井君のヒゲがディスクに混入していたりもして、結局あまり流通しなかったようだった。
でも一時期彼は「これで食っていく」くらいの勢いでオーラカンパニーをやっていた。
実際日々暮らしていくための仕事のことは、いつも彼を疲弊させ、悩ませているようだった。


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大柴は我々の小松さんと共同で「チョースゲー△」というイヴェントを無力無善寺で毎月やっていた。毎月というか、月2回くらいの勢いでやっていたような印象もある。自分の記憶では、無善寺は最初行った時はライヴハウスというより、普通のバーみたいな感じだったのだけど、気付いたらいつの間にかドラムセットやアンプが設置され、バーカウンターは後退し、夜な夜な数人のお客の前でわけのわからないアーティストのわけのわからないライヴが繰り広げられる特殊スポットに変貌していた。
最初はすごく得体が知れず不気味に思えたその場所に、いつの間にか自分もよく出演するようになった。
何かしら自分たちが抱えていた荒ぶるもの、ラフさや、かっこつけない感じ、もっとダイレクトに音楽の本質を捕まえたい、みたいな気持ちが、他の、音響設備やステージの面ではもっと整ったライヴハウスと比較して、無善寺では尊重されているような、もっと言えば、そういう気持ちの象徴として店が存続しているような気すらしていた。自分の知る限り、世間の常識のようなものから最も遠い場所の一つで、天井には無数のパンツが吊るされ、時にマスターがマスターなのに店内で暴れたり、中学生が働いていたりもした。
友達も良く企画をしていたし、店からも声をかけてもらったりして、ほぼ毎週何かしらのバンドで出演したり、見に行ったりしていた。


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そうこうするうちに、いつの間にか無善寺の店員になっていた内田るんさんに、このままの客足では潰れそうだからフェスをやって店を盛り上げたいと相談された。今思うと、これは彼女の心配性で、多分そのままでも潰れなかったと思うのだが、まあここらでそういうお祭りみたいなものをやるのは良いなと思ったので、当時の常連と、動員力や知名度の高いミュージシャンが、若手からベテランまでごちゃ混ぜで、一週間ぶっ通しでライヴをするというコンセプトの「日本ロックフェスティバル」を、大柴と小松さんとるんさんと自分が共同して企画する事になった。
といっても、別に各方面にコネがあるわけでもないし、当時無善寺という場所がライヴスペースとしてそんなに認知されていたわけでもないので、実際どうやって出演者を集めようかと悩んでいると、大柴はどこかから、こだま和文さんや、マジカルパワーマコさんのような著名な音楽家を連れてくるのだった。一体どうやって、と聞いたら、何か友達の家で飲んでいたら、そのままこだまさんの家に移動して飲むことになって、とか言っててあまり要領を得ないのだけど、とにかく色んな人といつの間にか仲良くなって連れてくるので、とても驚いたし、助かった。
そんなこんなでロックフェスは成功して、15人入れば手狭に感じるスペースに連日80人くらい入ったりして、見る側にとっては少々過酷な環境だったが、それも含めて異様な盛り上がりとなり、色々トラブルもあって疲れたが、充実した一週間となった。
勢いづいて、早くも半年後に第二回を行う事となった。


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大柴と自分は、オーラカンパニーの頃から、徐々に音楽方面でのコラボレーションをしようと画策していて、ある日大柴が俺はこんなもんじゃないに加入する事になった。バンドのサウンドは現在よりだいぶ混沌としていて、そこに更に演劇的要素を取り入れたいとも思っていたし、他にも漠然とやりたいことが沢山あって、そのシャーマン的な雰囲気でより一層の混沌をサウンドに持ち込んでくれることを期待していた。
そして実際にものすごい混沌が生じた。
大柴とのライヴは計4回やった筈だが、最初の2回は良いバランスだったと思う。大柴はターンテーブル(というか家庭用のレコードプレイヤーみたいなもの)を操作して、色んなSEを鳴らしたり、謎のハイトーンボイスを管楽器のメロディに重ねたり、宮司のように自作の祓串を振って、日本酒を皿から飲んで吐き出したり、トランペットを吹いていたこともあったように思う。それらのパフォーマンスと演奏とが溶け合って、かなりインパクトのあるステージが出現して大満足だった。
しかし、3回目あたりからバランスが崩れた。大柴のパフォーマンスが段々過剰に思えてきて、他のメンバーのストレスになり始めていた。
そして4回目に決定的な事が起きた。


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その日は二回目の日本ロックフェスティバルのうちの一日で、無善寺に100人くらいの人が入った。あのスペースを知っている人には信じがたい話かもしれないけど、詰めればそのくらい人というのは入るものなのである。ただ、それだけギュウギュウ詰めだと音が吸われてしまって場所によっては殆ど何も聞こえないし、とにかく通勤電車くらいの密度で、会場の不快指数はかなり高かったと思う。
大柴はそこで武田久美子のような貝殻ビキニスタイルで司会(のような事)をしていた。貝殻は高円寺の寿司屋でもらったと言っていた。この頃は裸になるのが流行っていたようで、アフリカの部族のようなペニスケースだけを付けて、そのケースに向かって喋ったり、ケースをほら貝のように吹いている時もあった。
服を着ているよりも裸の方が自然に見えるような男なので、別にそこに違和感はないのだが、まあとにかく全体的に無茶苦茶な感じだったので、初めて来た人の中には戸惑う人や、戸惑いを通り越して怒り出す人がいるのは今思えば想像に難くない。しかし当時はそういうことまで気が回らず、どちらかと言えばもっと無茶苦茶になればよいと思っていたし、時々不審に思った警官が様子を見に来たりするのだけど、その辺はコマツさんが上手く言いくるめて帰したりして、どうにかイヴェントは進行していた。


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でも、俺はこんなもんじゃないのライヴの時に事件が起きてしまった。最初の曲で観客を挑発した大柴が貝殻ビキニのまま、キーボードスタンドを飛び台にして、すし詰めのフロアに飛び込んでいってしまったのだ。不意に飛び蹴りのようなものを食らった前列のお客さんは当然怒って押し合い、殴り合いのケンカになってしまった。そしてあろう事か、自分も頭に血が上ってそのケンカに加わってしまい、より輪をかけた混乱が会場中に広まっていった。楽器は壊れ、ケーブルは断線し、アンプは傾き、人々は喚き、そしてそんな時だからこそ笑いの神がニッコリ微笑んで、大柴のビキニ貝殻が2つに割れたりした。その後どんな感じだったか、正直よく覚えていないのだが、無善法師の「うちはセックスはOKだけど、ケンカはダメよー」と言う名台詞によって、ようやくその場が収束した事は記憶している。
その後、残りの曲も演奏したのだが、楽器は壊れ、チューニングも無茶苦茶で、結局大柴と一緒のステージに立ったのはこの日が最後になった。このトラブルにウンザリしたメンバー3人が辞めてバンドは半壊し、自分の中でもこの日を境に何かが終わってまた何かが始まった感じがした。この頃から、会う回数は徐々に減っていった。


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今、この時期の事をもう一度考えたい。一時期、大柴は、危険な、暴力的な表現に傾倒していた。その暴力的な要素は大抵の場合は自分自身に向かっていくのだけど、外部に向かうこともあって、一番最悪だったのは渋谷ネストのガラスをギターで叩き割って、以降の出演者のライヴが中止になってしまった2005年(6かも?)の円盤ジャンボリー。自分は会場にはいなかったのだけど、この日のライヴではおそらく誰も幸福にならなかったし、また、ある知人が、そのガラスを割った時の音があまり良い音ではなかったと語っていて、要するにそういう風に響いた事が全てを象徴しているのかなとも思っている。
これらの事について、友人だからという理由で擁護するつもりはなく、全く肯定する気もないのだけど、ただ、大柴が暴力的だったこの時期について、今改めて考えを整理し、書かせてもらえたらと思っている。
ネストの前から兆候はあって、その直前には丸太を使うのが流行って、丸太の中に埋め込んだキン消しを包丁で掘り出して救出するライヴ(映像が残っているけど色々と危ない感じでハラハラする)、また丸太でリズムをとりながら、高円寺の円盤の窓から鳩を放し、鳩と一緒に飛び降りた結果両踵を骨折して入院。阿佐ヶ谷の病院にお見舞いに行ったら、肩に作り物の鳥を乗っけて、鳥のイラストのTシャツを着て、車椅子を巧みに乗りこなしていた時もあった。
おそらくこの時の気持ちとしては、意を決して飛んでみたら人だって意外と鳥みたいに飛べるかもしれない、その可能性は全くのゼロではないのだから試してみよう、みたいな気分だったのかもしれない。
また一方では、ステージで伝説を作りたいみたいな気持ちもあったのだろうと思う。時期が少し前後しているかもしれないけど、ビルから鎖で吊るされて、合言葉によって上下するライヴなんかもあったはずである。
ステージで伝説を作ること。例えばジミ・ヘンドリックスはギターを燃やしたし、ピート・タウンゼントは叩き壊したし、カート・コバーンも同じように破壊して、それは伝説になった。ロックと破壊衝動というのは切っても切れない間柄であり、幾人ものアーティストがロックの殉教者として27、8歳で燃え尽きるように死んでいった。そして大柴も当時そのくらいの年齢だった。
また一方で、ロックと暴力の関係についてはある種の欺瞞のようなものが付きまとう側面がある。ショーのクライマックスとしての破壊、叩き壊す予定の曲の前にスタッフからソッと差し出される安物ギター。ロックにおけるバイオレンスと音楽の間には明確な主従関係があって、もちろん音楽が主で、バイオレンスが従である。
でも、一度立ち止まって考えてみたい。果たして、暴力や、破壊というもの、バイオレンスを飼いならす事なんて本当に出来るのだろうか。また、飼いならされたバイオレンスで満足していていいのだろうか。予定調和のバイオレンスがライヴ会場で共有されて、観客はほどほどの刺激を得て満足し、演者は危険なパフォーマーとしての評判を得る。
でも、それと同時に世界中のいたる所で本物の暴力が、掛け値なしの、音楽など全く関係ない恐ろしい暴力が、人を支配したり、街や自然を破壊したり、人間同士のつながりを断ち切ったりし続けているのである。
表現のちょっとしたスパイスとしての暴力性。そんなのただの欺瞞じゃないかと思った。そういう風に大柴が思ったのかは、もうわからないけれど、少なくとも自分はそう捉えていた。
2,3人の身内すら見ていないようなステージに、文字通り命をかけて挑む無意味さ。バイオレンスと音楽との間に生じてしまった歪んだ主従関係を本来の形、つまり圧倒的な破壊に音楽が飲み込まれてしまう状態にすること。そういう実験をやろうとしていたのかなと自分は思う。要は、やるなら徹底的にやれ、ということで、しかし徹底的にやったら、音楽など一瞬で暴力に飲み込まれてしまうのだ。
それは皆わかっているからやらないことであり、しかし時々それでも実際に自分の身をもって試さずにはいられない人間が現れる。それは鳥のように窓から飛んでみることで、人が空を飛べないという事をようやく身体で理解するのと共通するような、世界に対する態度である。
それは愚かな事かもしれないが、その愚直さを自分は笑うことはできない。


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しかしこれらの行為によって大柴は殆どのライヴハウスに出禁になり活動範囲を狭めてしまった。結局のところ自分は大柴の素の部分、素の音楽性、素のギターや歌や詩のセンスが一番素晴らしく、才能のある所だと思うので、それはとても勿体無いことだと思っていた。ただ、そういう風に心に生じた疑問を適当に飼いならして無視しつつ音楽を続けるには、彼は真面目過ぎたのかと思う。
以上のような経緯で活動場所が制限されてしまった大柴は一時期無善寺にも出られなくなって、大和町の公民館で「スターの階段のぼるSTAR倶楽部」(のちに単にSTAR倶楽部となった)を開催したり、また佐藤君のおじいさんがオーナーだった廃工場に住みついて、そこで「金のマサカリ」という物凄いイヴェントをやったりしていた。金のマサカリについては後述したい。
また、そんな状態でも、東高円寺UFO CLUBだけは引き続いて出演OKだったみたいで、そこでも時々ライヴをやっていたと思う。
この頃ミッシング箱庭と平行してデーモンズも始まっていたはずで、ただ、どちらのバンドも人間関係の揉め事が多く、ライヴの前後に大柴がひたすらテンパって右往左往している姿が印象に残っている。一緒に組んでいるメンバーも皆一癖二癖あって、どちらかというとそういう場では大柴は取りまとめ役のような存在で、でも相変わらず本人も同じくらいトラブルメーカーであった。ライヴ会場近くの真っ暗な空き駐車場で、10人くらいで車座になっている彼らの姿を思い出す。そういう少し厄介な仲間たちのことを愛していて、そこから生じてくるサウンドを求めていたのだと思う。暴力的衝動はこの頃より徐々に鳴りを潜め、それよりもっと大きな意味で世の中や、社会に対してのメッセージ、変革の意識が高まっていった時期のような気がする。ライヴにおけるパフォーマンス的な要素は後退し、音楽を演奏する比率が高まっていった。


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この頃で憶えていることは、大柴達の間でローションが流行って、大量の自家製ローションをビニールシートに撒いたその上を藤井君や佐藤君やタイシン君が滑行するライヴをした事。その時たまたま会場のオーナーが変わった人で、通常の反応とは真逆にすごく気に入って、また是非やってください、と言われて本人達すらも戸惑っていたこと。ミッシングの関根さんが引っ越すことになって、そのお別れ会が、ミッシングとハズレッシヴの間で催されたこと。スーパーのビニール袋に手書きの中編小説「サイケデリック武勇伝」の紙束を入れて持ち歩いていたこと。マンガも描いていて、それは家のどこかにあると思う。マーク加藤さんと二人、突然スタジオDOMに召集され、大柴がバンド結成の宣言文みたいな文書を読み上げたあと、セッションが開始されたがあまり上手くいかず、それ一回きりで終わった事もあった。また、少し時期は前だけど、手巻き寿司と音楽を融合したイヴェントをやって(会場前方でライヴが行われ、後方で手巻き寿司が作られる)、HIZUMIのアイザワ君(彼も亡くなってしまった)が終始ステージに出てきて誰の演奏にもちょっかいを出すのを主催としてなだめていたのも懐かしい。伝聞でしか知らないけれど高円寺で行われた年越しイヴェントで、駅前で自家製の神輿を燃やしたりもしていたようだ。


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ある時、金のマサカリからお呼びがかかった。
都市伝説級のイヴェントだった。まず会場に着いたら出演者の何人かが全裸な上、全身に赤や金や青のスプレーをして、赤鬼、青鬼みたいになっていて、女の子たちは動物の耳をつけていた。廃工場の中には二つのライヴステージとDJブースがあり、しかし防音などは全くしていないので、近隣の怖い人や警察がやってきてはその折衝のために幾度となく演奏が中断し、それとはあまり関係なく、ローションを床に塗って、人が直線を滑っていく競争みたいなのが行われたり、宝探し等の催しもあったりして、何と言うか、風雲たけし城ウッドストックが入り混じって規模が千分の一になったような空間で、廃工場なのでところどころガラスが割れていたり、殆ど身内しか来てないはずなのにメンピスのギターが失くなったりと、決してラブアンドピース一辺倒なわけでもなく、油断ならない感じで、まあ本当に凄まじい世界だった。
そして、自分はと言えば、残念ながらそれに付いていけない感じがして、一歩引いて見てしまっていた。そこは自分自身の狭量なところなのである。全裸になってスプレーしたり、ローションで床を滑ったりできない、この世界には入っていけないと思って勝手に一線を引いて疎外感を感じてしまったのだ。なんだか随分遠いところ、違う世界、もう一歩で全く理解できなくなるゾーンに皆が入っていってしまったような感じがして、帰宅してから落ち込んだことを憶えている。ある種のサイケデリックな夢が具現化したような世界を目の前にして、自分は何だか身構えてしまっていた。


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以前と比較すると大柴と会う機会はますます減っていった。当時彼がつとめていた八百屋の配達中に道でバッタリ会うような事はあっても、音楽の現場ではあまり出くわさなくなってしまった。無善寺もしばらく出禁で、日本ロックフェスも大柴抜きでやるようになった。
そんな無茶苦茶な大柴が父親になるというのを知ったときは心底驚いた。
これも伝聞なので不正確な部分があったら申し訳ない話なのだけど、自分が聞いた話では、子供をちゃんと育てながら、音楽も続けていけるのかと悩みながら、公園で寝ていた大柴の夢に神様が出てきて「お前は家族も、仕事も、音楽も全部やれ」と告げ、それで吹っ切れた大柴は長男に全介という名前を名づけたという話がある。
彼にはそういう風に、現代の神話みたいなものをリアルに生きているような部分があった。
自分はこのエピソードがすごく好きだ。そして神様の言った通りに、その全てを全力でやっていた。


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この辺りから数年間は年に数回会うか会わないかくらいのペースで、特に親しく連絡をとっていたわけでもなく、詳しく書けるようなエピソードはほぼ無い。大柴は高円寺を離れ地元である千葉県の野田に移り住み、手書きのフリーペーパー「野田音楽ファイターズ」を発行していた。最初の号に自分のソロアルバム「KK」のレビューを掲載してくれて嬉しかった。自分が知る限り「KK」を取り上げてくれた、たった一つのメディアである。
野田音楽ファイターズは、地元の図書館や公民館などで配っていたようで、それを通じて、近隣にもきっと存在しているであろう、まだ見ぬ音楽好きの仲間にコンタクトをとろうとしていた。
1号、2号は手元にあるけど、果たして何号まで発行されたのだろうか。ミュージックファイターズを通じた新しい出会いはあったのだろうか。
野田ミュージックファイターズに今改めて目を通す。大柴陽介の文章について。これがまた独特で、同語反復や、同じような言い回し、突然の文体や語尾の変化による意外な結末など、独特のリズムがあり、本人がしゃべっているような部分もあれば、突拍子もなく思える文学作品からの突然の引用があったりして、筆跡は達者ではなく一見ゴチャゴチャしているのだけど、いざ読んでみると意外と読みづらくなく、何と言えばいいのか、文章の内容とは関係なく、アンビエントミュージックに身を任せているようなフワフワとした感覚が、どこかにあったりする。それはやはり本人と話している感じにも近い。それが手書きのせいかと言えば、そうとばかりも言えず、web上に残っている文章や、やり取りした何通かのメールからもそれが感じられる。その特徴的な文体を真似してみたいと何度かトライしたことがあるのだけど、何かわざとらしく変なものになってしまってダメだった。やはりそこには絶妙なバランス感覚のようなものが働いているのである。彼のテキストについても、いずれもっとアクセスしやすくなれば良いと思う。


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だいぶ長くなってきた。一気に読むには少し疲れるだろう。
長いといえば、大柴のライヴがまさにそうで、はじめの5分、10分は本当に魔法のように素晴らしくて最高なのだけど、段々それが冗長に感じられてきて、終わりの方は見ている方も疲労困憊で、時々その地点すら通り越して人が怒ったりしているのだ。彼は楽しいと思ったことに尋常じゃなくのめり込んでしまう所があって、それは一般人の感覚よりだいぶ過剰だったので、程良い按配みたいなところで演奏を終わらせることが出来なかった。出演が長すぎて次の出番の人が帰ったライヴすらあった。
まあ似たような部分が少し自分にもある。時には内容よりも、サイズの方が優先される事があるというのは、つい最近学んだことである。


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それでも、あと一つ書かなければいけないのはレコーディングの事である。そもそもこの、2011年に共同で作ったミッシング箱庭の「太郎」というアルバムを、あらためて紹介したくて、この文章を書き始めたのだ。
自分も身の回りの多くの人たちと同様、音楽以外の仕事をして日銭を稼ぐのがどうにも辛くて、何とか脱出を試みて、その頃はレコーディングエンジニアの真似事のような事をしていた。要は手持ちの機材を総動員してリハスタ等で行う出張レコーディングであるが、スタジオ修行の経験などなく、師匠もいない、いわば全く無免許の身ながら、機材の進化や人の優しさに助けられ、どうにか幾つかのアルバムを世に送り出し、そのうちの何枚かが話題になったり売れたりした経緯もあって、大柴からもお声がかかった。ある日突然「ミッシング箱庭のレコーディングをしてくれよー」と電話がかかってきた気がする(余談だが、彼は殆ど略語を使わず、何でもフルネームで呼ぶ癖というか、拘りがあった。そのくせ、通常誰も略さないようなものは略したがり、例えばカート・コバーンの評伝「病んだ魂」のことはヤンタマと呼んでいたりした)。
既に3人目が生まれていた大柴一家が全員で車に乗ってうちまで迎えに来てくれた。大体いつも日曜日の午前中で、青梅街道を高円寺方面へ向かう車内ではピーター・バラカンのラジオが流れ、子供たちはいつもとても元気で、移動は賑やかで楽しかった。


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録音場所はまたも高円寺のスタジオドムだった。一回に4時間くらいずつ、3,4回に分けて10曲を録音した。8〜9畳くらいのリハスタで、あり合わせの使い古しの機材で、どんな音になるのか最初とても不安だった。自分がそれまで関わった作品はどれも低予算だったが、その中でもズバ抜けて貧相な環境での録音だった。
しかし不思議な事に、今までで一番良い音で録音できた。それは魔法がかかっているかのようだった。ミッシング箱庭のライヴの最初の5分くらいの素晴らしい感じ、心に悪魔を飼っている人間だけが持ちうる優しさみたいなものが全開になる瞬間、あのなんとも言えずヘロヘロで頼りないのに物凄くトランシーなギターも、録音でちゃんと捕まえることができた。
伴奏は殆ど一発録音で、その後、歌のダビングも3人で同時に一回歌って終わり、という事が多かった。結局のところ演奏が調和していさえすれば、その前に黙ってマイクを設置すれば、音源制作というのは、ただそれだけで済むのだということが良くわかった。
こうして、10年くらいの間、断続的に続いた大柴と自分とのコラボレーションは、ようやく実りあるかたちで結実した。


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このアルバムではまた、大柴のプロデューサー的な手腕も発揮されている。本人が歌っている曲以外に、自分が作った歌をメンバーやゲストボーカルに歌わせている事が多い。歌う人を想定して曲を作るのが楽しいみたいで、特に穂高さんの「耳の穴から入ってきて頭の中で遊ぶ」や、ゲストボーカルの藤井君が歌った「男たちの夜」「おじさんLoveジュボ」は、ボーカリストの人選がとてもはまっていると思った。
それから木村さんの声と彼女の作る曲(「空中温泉」や「5.15のサーキット」もそうなのかな?)はミッシング箱庭がスタートした時から根底にあるトーンで、聴いていると、絵本を読んでいる時よりも絵本を読んでいる気分に自分はなってしまうのである。
大柴がだいぶ昔に詞を書いたらしい「お前がマイケルジャクソンになっても」は佐藤君が歌い、元デーモンズの山ちゃんがギターを弾いた。なので当時大阪にいたメンピス以外のデーモンズのメンバーも参加している事になり、昔からの仲間達の共同制作、一種の卒業アルバム的な趣きがあった。
そういうものが実現できたことは本当に素晴らしかった。
あんな風に、夢のように楽しい録音の現場は、きっともう無いだろう。


彼の書いた詞をあらためて読んでみると、死後の世界や、この世との別れについて歌ったような曲が多く、入院を知った時、幾つかの曲は縁起が悪くてとてもじゃないけど聴けなかった。「さよなら」とか「バイバイ」と言っている曲が多すぎるのだ。
それでもこのアルバムの曲や、彼が倒れる直前までアップしていたsoundcloudの曲を聴くと、どうにも面白すぎて笑ってしまって、悲しみがやわらぐし、彼の死をシリアスに受け止める気すらも薄れてくる。そのくらい本人は脱力している。
もちろん家族でもなければバンドメンバーでもない人間の気楽さゆえに、そう感じる部分はあるのだけれど、しかし、そのどうにも単純に悲しませてくれない感じこそが、大柴陽介の優しさなのかなとも思っている。


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自分が今書ける事はおおよそ以上になる。
とにかく強烈な印象を残した人間だったので、書いているうちにかなりの長文になってしまった。
これだけ長い文章を書くことが果たして自分の今後の人生であるのかと思う。
きっと彼は、出会った人それぞれの中に強烈な大柴陽介像を残し、人によってそれは少しずつ重なっていたり、また全く違う印象を持っている人もいるだろう。何よりそんな風に、自分にとってどういう存在だったのか、彼の事をどう捉えていたのかを、頼まれてもいないのに一生懸命語りたくなってしまうような、そんな魅力のある人物だった。
亡くなった翌日、11月も末だというのに部屋の中に季節外れの蚊がいて、そんなはずは無いのだけど大柴かな、と思った。あの世で神様が次は何に生まれ変わりたいか希望を尋ねた時に「蚊でお願いします!」とか即答して思わず神ものけぞるような、そのくらい意表を突いた、次の発言がまったく読めない人物だったことは間違いない。
遠方からも含めて、大勢の人が訪れたお通夜から1週間が経った昨日思い立ち、それからずっと、殆どの部分を一気に書き上げた。
下手な文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
おそらく本文中には内容的な誤りが幾つかありますが、嘘は書かなかったつもりです。
大柴君の音楽に、ぜひ触れてみてください。


ミッシング箱庭「太郎」(現在10曲中5曲ですが、後に残りの曲もアップ予定)


soundcloud yousuke ohshiba