Dangerous Mind

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キッズ・リターン 人間誰しも良い部分があるという事

ナチスの上層部たちのピクニックの映像を見る。
陽光の中で、ヒトラーや、彼のガールフレンドや、重臣たちが、普通の若者のように、笑い、自然と触れ合い、湖を眺めたり、ボートに乗ったり、冗談を言い合ったりしている。
彼らの中の人間的な部分を見るというか、とてもノーマルな、ある意味拍子抜けするような映像である。
ここには、当たり前の事ではあるけれど、見落としがちな、重要な事がある。
世の中に、全く救いようのない惨劇を引き起こした当人たちは、必ずしも、全く救いようのない悪の塊であるとは、限らないということ。
人は誰しも良い部分を持っているというのは、通常レベルの意味合いでは、希望に満ちた良い言葉だが、それより一段大きな物差しで捉えると、意味合いが逆の方向に変化してくる。個人レベルでは善なる部分、人間的な部分も持つ人たちが、一つの救いも無い、完全な過ちとしか言いようのない、人間性皆無の絶望的状況を引き起こす事がある。
もう少し日常的な話で、北野武監督の「キッズ・リターン」は、この問題が主題の映画だと思っている。そこに登場するボクサー崩れの林という人物と、暴力団の組長は、ともに、ある種の人間的な魅力のある、どこにでもいそうな、人生に道筋を与えてくるような存在として物語に登場するが(但し林については最初からもう少しいやらしい感じで描かれている)、彼らと関わった事によって、二人の若者は後に破滅とまでは言わないまでも、人生において大きな回り道を経験させられる事になる。
この林と、組長にはそれぞれ果たして悪気はあったのだろうかと、時々考える。主人公に、ボクシングの光り輝く才能を見た林は、嫉妬して、彼をダメにする事にしたのか。組長は初めから都合よく使い捨てるつもりで、若者を周囲にはべらせていたのか。
まあ、底意ではそうなんだろうけど、本人たちにも、自分の底意というのが本当のところはそんなにハッキリとは掴めていなかったのではないかとも思う。特に林についてはそうなのではないかと思っている。
殆ど無意識的に悪い流れを生み出して、その渦に人を巻き込んでしまう、いわば人生のトラップのような存在に、夢を追って生きている途中で人は出くわすので、そこの所をよく見極めていかないと、ボーッとしていると飲み込まれて大変な事になるよ、と、言っているのかもしれない。それでいて、まあでも、そういうのに引きずり込まれて、無駄に棒に振るのも、またそれも一つの人生だよねと認めてくれているような感じもする。また、飲み込まれたのは結局その人間の意思や、持っているものの強さの問題だと思える部分もある。その辺のメッセージ性が曖昧な線をキープしているところが、この作品の魅力の一つだと思う。
少し話がズレてしまったのかもしれないけど、要するに悪というものは、必ずしも悪の様相を備えて迫ってくるものではなく、もっとフレンドリーに、自然なかたちで、また恐らく本人たちにも無自覚なままで目の前に登場するが、それに惑わされてはいけないし、惑わされないために有効なのは過去に学ぶことなのかなと、思っている。
殆ど誰も望まないような国と国との過酷な殺し合いがなぜ過去に何度も起こり得たのか、そこに働いたメカニズムは一体何なのか、その流れに飲み込まれないためには、普段から何に気をつけるべきなのか。自分は今、飲み込まれているのか、いないのか。矛盾しているのか、いないのか。
無意識の悪の流れを断ち切るのはそんなに容易い事ではないが、それゆえに取り組みがいのある主題である。そこにちょっとしたゲーム性のような物すら感じたりもするが、きっとそんなに不真面目な話ではない。