Dangerous Mind

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読書とインターネット

何か本を読んでいて、数ページ通り過ぎたあとに、そういえば前にあったあの記述の意図は結局何だったんだろう、とか、あの時この登場人物は何て言ってたんだっけ、とか思って、もう一度その部分を読みかえそうとする時、自分は該当部分を素早く見つけるのが得意で、それはどうしてかと言ったら、その自分が探している部分に含まれる特定の単語や、ひとまとまりの文章なんかが、本を見開いた時にどの辺りに位置していたかを、よく覚えているからだ。主人公が初めて電車に乗って辿り着いた駅で余りの人の多さに驚き、右手にぶら提げていたはずの旅行鞄の事を失念してしまう場面は、確か横に見開いた単行本の長方形の中では右斜め下辺りから始まっていたなあ、とか、そういう風にテキストの内容だけでなく印刷された物自体を、ある意味絵画や風景のように無意識下では捉えていて、その位置関係は何度読み返しても同じ絶対的なものなので、その場所に注目してページをパラパラめくっていけば割と簡単に該当箇所にアクセスすることができる。そして、そのことの意味は思っている以上に重く、深いと、テキストの配置がブラウザのサイズや時間の経過によって変化していくインターネット上の文章を読むにつけ、感じる。パソコンの画面の中では文字の配置は流動的で、文章の意味内容と、文字自体の物質性が、より一層分離しているからだ。その事について良いとか悪いとかいうのではないけど、例えば「ほぼ日」のサイトが他のサイトに比べて読みやすいのは、そういった文字の配置がネットというよりは印刷物に近い感じに工夫されているからだと思う。これは単純に書物のかたちを模して似たようなレイアウトにすればよい、ということではなくて、人が紙に印刷された文字を読んでいる時に体験する感覚をパソコンの表示のシステムで再現する、という事なので、思っている以上に技術のいる事だと思う。そこには書かれている内容だけではなく、読書体験についての深い考察が反映されている。
私たちが何かを「読む」時(おそらくこれは文章だけに限った事ではなく、日常生活で我々はあらゆる物事を「読んで」いる、と感じる)、決してその事が伝えようとしている意味内容だけに直接、精神的にアクセスしているわけではなく、物質的に、音や光や目や耳や空気を介して読んでいるわけで、しかしネット上の文章は、少なくとも視覚的な情報に関してはアクセスするたびに変化する可能性がある、相対的なものなので、(自分は)おそらく無意識下でその部分は切り捨てて読んでしまっている。読書の体験がもたらす豊穣に比べて、ネットの文章がどうしても貧しい感じするのはそういう部分に原因があるのではないかと思う。そして、その貧しさは当然そこで書かれる文章の内容や質にも影響を及ぼすものだろう。
逆に、そういう部分に可能性を見いだすこともできるだろう。20世紀を見渡せば、革命的に新しいスタイルはいつもゲットーで生まれているように思われるからだ。手書きの文字よりも、印刷文字よりも、さらに物質性が気迫なこのフワフワした文字の大群はテキストの伝達におけるテレパシー的な、非物質的な側面に相当重心をおいていて、その点で非常に尖っていると思う。熱心に読んだことがないので責任あることは書けないのだけど、ケータイ小説の、殆ど暴力的といっていいストーリー展開や、その背後に豊かな文脈性を持っているとはとても思えない、ただ幾つかの属性によって規定されて点と点のように存在している登場人物たちは、やはり紙とインクからでなく、キーボードや液晶からでないと生まれないものであるように感じる。以前「リアル鬼ごっこ」を読んだ時にもそういう風に思ったんだけど、文章が下手とか、世界観が薄っぺらとか、それは本当にそう感じるんだけど、その事自体が何かしらの切実なリアリティを持って、いま表現されていることが重要なのではないか。

あ、全然関係ないんだけど今清澄白河でやってるチム↑ポムの展示がすごい!無茶苦茶衝撃的でした。現代美術というものが存在している理由がちょっとだけわかった気がします。もともと遠藤一郎個展を見に行ってそこの隣のギャラリーで同時にやっていたんだけど、勿論一郎の展示も面白いんだけど、チム↑ポムは衝撃的でした。両者は共通している点も少なからずあるよな。展示はどっちも8/30までみたいです。
http://news.natural-hi.info/?eid=445822