Dangerous Mind

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とうようズ・トークの最終回について

夜中にちょっとした用事でパソコンを使わなければいけないのだけど、どうしてもついつい気が紛れて色んなサイトを見たりブラブラしてしまうね。パソコンじゃなかったらこういうブラブラはないな。散歩とか立ち読みとかには人間としての限界があるから。パソコンは、ちょっと逃避している間にあっという間に面白画像とか見つけてしまって二時間とかすぐ経っちゃうよ。
最近見た中では
映画版こち亀興行惨敗

オービスが捉えた決定的瞬間


この時の衣笠のグルーヴ感は何と表現すればいいのか・・。YouTubeの画面越しでもちょっと怖い。

こういうのを見てるとあっという間に時間が経ってしまう。もちろん元々の用事は全然終わってない。手ついてすら無い。
本当はこういう事じゃなくて、ちゃんと書きたい事があったんだった。ミュージックマガジンのとうようズ・トークの事だった。何が書きたかったんだろうか。とにかくああいった行為は今まで見たことが無い前代未聞の行動だという事だろうか。自分が創刊した雑誌の連載最終回を自分の遺書で締めるっていう、しかもその遺書がとにかく軽くてサラっとしてて、途中関係無い話がひょいっと挟まれてるんだよね。そういう構造については大里俊晴追悼文集の山崎春美さんの文章を思い出した。本題、というものがどうしようもない程の、まさに一つの命の重さで存在していて、そこから別の話に飛ぶ、距離感とスピード感、それら二つのベクトルの衝突によって生じる倍音のようなものを意識的にも、無意識的にも調整しながら最終的に思いも寄らないほど鋭利なシェイプに文全体を持っていくというような。
山崎春美さんのは最終的に情的なものがほとばしってライヴの終わりみたいな締めだけど、中村とうようさんのは文章の末尾がサラッと軽くて(確か「では皆さんさようなら、中村とうようっていうヘンなやつがいた事を時々思い出してくださいネ」みたいな)、顔面を殴られたような衝撃、みたいな言い方があるけど、パンチが頭の上を飛んでいったみたいな印象があった。この人には殴られることすらできないのか、という。あれは怖かった。人間かどうか疑わしいと思った。
あと、山崎春美さんは文章が上手なので文章自体のグルーブ感が文の速度感と直結していて、多分割とサッサッと書いて、結果ああいう物ができてたって感じがするのだけど、中村とうようさんはそんなに文体自体に力があるわけじゃないので、そこも自分でわかってて、どうやったら良いかなと、考えてやってる冷静な感じがした。死ぬ前に良くそんなに落ち着いていられるなと思った。
もう一つ、ちょっと恣意的な読み方かもだけど、あの自殺自体が東京都知事や読売新聞主筆みたいな老害たちに対するメッセージみたいにも受け取れなくもない。震災以降、何かムダに活性化して社会をますます混乱させているトンチンカンな老害たちに対する、別の老人からの苛立ち(多分それは若者にも、というか日本全体に向けられている)みたいなものというか。そういう要素も多少感じたし、関連するような事が書いてある箇所がある。
でもそういう風にメッセージとして読むよりも、本当に個人が好き勝手やるという事の一つの極を発見し、実行したという風に読むべきなんじゃないかと思う。芸術とかそういうものの総体が一体何なのか、それは恐らく誰にも一生わからないけど、それでも時々目にする事のできる芸術の一部分というか、そういう類のものなのではないかと。好き勝手やるって言っても中途半端な好き勝手なら誰でも簡単に思いつくけど、ああいう極限的な好き勝手は、多分一人一人にとって違っていて、それを見つけ出すのは発明だし実行するのは芸術なのかなと思った。例え自殺であってもネガティブに捉えるべきではないものだって成立し得るのかなと、少し思わされた。
ここまで書いてて、多分わかりにくいと思うんだけど、とにかく読んでみたら何となく何が言いたいのか、わかるかもしれないし、別にそんな事はどうでもよく、本当に凄い行為だと思うので

一度売り切れてたみたいだけど今増刷されて書店にも置かれてるみたいなんで、是非とうようズ・トーク読んでみてください。
そしてその後、色付きの方のディスクレビューのページを読みなさい。そこに「狩生健志・KK2」というCDが載っておる。読み終わったら近所のCD屋かamazonでそれを買ってください。
KK2

KK2

もともとCDのレビューが載ってるって友達が教えてくれて立ち読みしたんだけど、それはそれでありがたいとして、その事によって、このとうようズトークを読めた事は本当によかった。幸運だった。
そしてこの雑雑文を書いてまた一時間が過ぎたのだった。良い加減作業を。作業自体は多分10分で終わるんだ。こういう時間の使い方は、やはりもっと減らしたいものだ。