Dangerous Mind

Dangerous Mind

四谷で練習。新しい曲は自分で作っておきながら演奏するのがとても難しい。速弾きとか、特殊な指使いとかが要求されるわけではなく、もっとシンプルに難しい。年々、作る曲の難易度が上がっているように思えるのは何なんだろうと思う。やっぱり技術を磨いた分だけ、それを見せつけられるような表現をしたいからだろうか。それだったら、速弾きとか、特殊な指使いとかが要求されるような楽曲と結局のところ同じということなのだけれど、まあ、正直その可能性も否定できない気がする。
自分が育った九十年代に流行した音楽は技術よりも衝動を優先させたようなものが多く、自分も少なからず影響を受けたというか、おそらくスタートラインはそこなのだけれど、今それらを聴き返して思うのは、結局のところ技術を否定するための技術(それは一次的な演奏外にまで範囲を拡大したもの)というものが存在していて、それが上手な人と下手な人がいただけだ、ということである。バンドでいったら、ギターやボーカルなどのウワモノは無茶苦茶フリーキーだけど、リズム隊はやたらとしっかりしていたりとか、意識的、無意識的に時代が求めるバランスに丁寧にチューニングされたようなものが多く、結局それができるかできないかは、拡大された技術の問題だと思うのである。まあ、そういうものがかつては輝いて見えていて、今も多少光ってみえるけど、明らかに時代が変わった感を自分は感じる。そして、どちらにしてもそういう小うるさい小理屈みたいなものを、一瞬でも振り切る事ができるような振幅を持つものだけが、何度も鑑賞するに値する作品として後世に残るのだと思う。後世に残らなくても、とにかくそれが重要なのだと思う。
そういう諸々を考える際に何らかのヒントを得られる気がして、ゴダールの映画をまとめ見している。しかしどの作品も30分続けて見られない(寝てしまう)。ここ数日見ている「パッション」という映画は、とても素晴らしいのだけど、もともとわかりにくい上に、夜中の空いた時間に四分割くらいで小分けにして見ているので、幼少時の噛み切れない肉と同じくらいグダグダな間柄になってしまっている。それでも、ストーリーをこえて、画面をこえて、直接心にうったえかけてくるような、この映画から溢れ出る素晴らしさ、瑞々しさとは、一体なんなのだろうか、そこにはどんな技術があると言えるのだろうか。

パッション [DVD]

パッション [DVD]