Dangerous Mind

Dangerous Mind

恵比寿ガーデンシネマにて「インランド・エンパイア」を鑑賞。物凄い映画だった。デヴィッド・リンチという監督は、映画における、ストーリー、映像、音声、出演者などの諸要素と、それらをもう一度つないで一つの「映画」にしてしまう、見ている人間の頭の中のどちらもを徹底的に深く考えている人なのだろうと思う。今作では、断片的なストーリーが所々つながったり、つながらなかったりして、一つのライン、全体像が浮き上がってくるという手法(前作の「マルホランド・ドライヴ」)自体が脱構築されており、では、ストーリーの円環が最後まで閉じずに物語にぽっかりと穴が空いているのかというと、それともまた違って(それは前前前作の「ロスト・ハイウェイ」だと思う)、ストーリーの欠損したピースとは、それぞれ観客席にいる一人一人の人生、過去と未来であるのだという、映画を映画の枠からはみ出させて、リアルな世界につなげてしまおうという強烈な意思を感じさせられた。それだけの強いメッセージ性や開放感が画面自体に漲っていた(それはマルホランド・ドライヴ終盤の劇場のシーンから続いているものなのだと思う)。そういう意味で、チャップリンの「独裁者」のように、現実に対する積極的な姿勢と熱量を伴った映画だと思う。
以下、具体的な内容についての記述を含みます。
基本的に、映画内映画を軸にして進んで行く話で、全体としては映画批評、そして映画を見るという行為自体の批評になっている。例えば、大体6:1くらいの比率で次々と恐怖シーンと美女シーンがあらわれるのだけれど、それらの出現する必然性はストーリー上の要請による、という側面は限りなく薄く、定期的な刺激を与える事によって観客を飽きさせない、というハリウッド映画の常套手法の徹底した実践と、(破綻した)パロディであるように思われる。脈絡無く、殆ど記号のような「恐怖」「不安」と「エロス」が、しかし圧倒的な技量とエモーションを伴って、定期的に描かれるのである(「恐怖」「不安」時の低音の使い方が凄い。物理的な恐怖)。物語の終盤では唐突に、殆ど「そろそろ、終わりますよー」みたいな感じで、強烈な「光」が現れて、それまで混沌としていた物語が、一気に「解決」してしまう。それは、恐怖や不安や解決の強烈なイメージ、それ自体を行使する事によって、観客に対してダイレクトに恐怖感や不安感、それらの解決感を与える事ができるという事実のわかりやすい提示である(最後の「光」が、それだけでは物語全体に対して完全な解決を与える事はできない、解決「感」しか与えられない、という事によって、より一層その事がクローズアップされている)。映画は通常、ストーリーとイメージが手を組むことによって観客に特定の心理状態や、それに伴う「感動」を起こさせ、またその事を作品の目的にしている。そしてその際のメカニズムは隠避されるべきものとして映画の表面には出ないよう扱われるのだが、この作品は、両者が共犯関係を結ぶ事を巧みな手段で回避する事によって、それぞれの間で働く力学(それこそ映画の本質であり、そしてそれは映画の中ではなく、見ている我々の頭の中に存在するものである)そのものにスポットライトを当てている。そのことによって、2時間なり、3時間なりの娯楽として、笑ってもらったり、泣いてもらったり、興奮してもらったりして、ああ楽しかった、では終わらせない、単なるフィクション、娯楽である事を超えて、直接現実に浸食する「事件」のような存在に、この作品は成り得ている。全編通して、映画が向精神的なサプリメントのようなものや、現実逃避手段の一つにおとしめられてしまう事への、リンチ監督のストレートな嫌悪感、怒りが伝わってくる。
デヴィッド・リンチは「心温まる寓話(ストレート・ストーリー)」、「ラブストーリー(マルホランド・ドライヴ)」と、割とジャンルに対して意識的な作品を近年作っているように見える(その流れで言うと「ロスト・ハイウェイ」はロード・ムーヴィーかな?)。今作は、映画を作るということ、映画を見るということ、現実に存在する人たちが現実に在る道具を使って、虚構の世界をつくりあげるということ、それ自体に言及しっぱなしでありながら、しかし、一つとして笑いが起きるような場所が無い、という意味で完璧な「コメディ(ミュージカル・コメディ)」なのではないかと思う。(但しエンドロールだけはダイレクトな笑いを目指したもののようにも思える。ノコギリのおっさんとか)。また、有名映画をパロディ(というよりパロディという行為自体のパロディを感じる。映画ファンをニヤっとさせる類いのストレートな、洒落た引用ではなく、引用のようで引用でないような、ただ漠然と、似たシーン、なのである)的に引用している点、そして主人公がひたすらテンパっている、というところにも笑いの要素がある。撮影では全編DVを使用したとの事であるが(シーンによって解像度というか、粗さを変えていて、明らかにデジタルっぽいギザギザが見える場面もある。映像が小さな点の集合で、見た人がそれぞれ頭の中で作り上げることで絵になっているという事を時々再認識させられる)、DVカメラでフィルム撮影の映画の現場を撮るというナンセンス・ギャグや、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)をモチーフにした脚本、というダジャレ的な要素すらそこには折り込まれている。そして、それらは映画外を参照する事によって初めて成立する構造になっており、観客への強烈な働きかけを感じるが、それが映画の持つ可能性の発展を信じ、芸術によって世の中を変革するという、かつてのロックのような熱いメッセージとして今回は表出しているように思える(リンチ監督はこの作品のプロモーションのためにドノヴァンとアメリカツアーをした、とのこと)。
彼の作品としては珍しく白人以外の人種が大勢出てくるのも、できるだけ多くの人に訴えかけたい、というストレートな動機からくるものなのではないだろうか。
と、思いつくことだけを書いても、これだけの文量になってしまう、それだけ考えさせられる映画だった。他にも取りこぼした沢山の要素や視点があるように思える。キャッチコピー的に一言で斬られることを完璧に拒否しているように思えるのであるが、それはとても大切な事だと思う。
低音が凄いので映画館で見た方が絶対良いですよ!
インランド・エンパイアのオフィシャルサイト

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