Dangerous Mind

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ダニー・エルフマンおよび「BOINGO」について

ダニー・エルフマンおよび「BOINGO」について



ティム・バートン監督の近作「ビッグ・アイズ」をDVDで見る。
ほとんどのシーンにBGMが付く映画で、音楽はティム・バートンと長年タッグを組むダ二ー・エルフマンである。
映画は面白かったが、それとまた別に、ずっと書いてみたかった事を思い出した。



音楽に目覚めて間もない高校時代、偶然「BOINGO」というCDを手にいれた。「BOINGO」は80年代から活動するバンド「オインゴ・ボインゴ」が突如「ボインゴ」に改名して発表した作品で、ダニー・エルフマンは現在も、この「オインゴ・ボインゴ」及び「ボインゴ」の中心人物である。
ある日、音楽にあまり関心がない父親と街に出る用事があり、母との待ち合わせか何かで時間が余ってしまったので、たまたま通りかかったCDショップに二人で入った。なぜか機嫌が良かった父が、CDを一枚買ってやると言うので、雑誌のレビュー欄で目にして以来、その奇妙なジャケットが記憶に残っていたボインゴのニューアルバム「BOINGO」を買ってもらうことにした。
当時はニルヴァーナやマッドハニーに夢中だったから、自分の小遣いであれば、失敗のないように彼らのまだ聴いた事のない作品に使っただろうが、親に買ってもらえるというので気が大きくなって、一度も聴いたことはないが、なんだか面白そうなアーティストの最新作を、ハズれてもいいや、くらいの気持ちでねだったのだ。
その数年後に父は病気で他界した。重ねて書くが、音楽には関心があまりなく、代わりに数学を熱心に教えてくれた。店に一緒に入ってCDを買うような記憶はこの一度きりなのもあって、このアルバムは奇妙な思い入れとともに長年自分の心に引っかかり続けている。


「BOINGO」は90年代初頭に流行した「グランジ」を、そのブームも下火になりかけた90年代後半に、あくまで音楽アレンジ、意匠として、巧みに取り入れて仕上げた作品だった。全体で60分近い大作だった。


グランジ」も、現在では既に何周かまわった上で一つのスタイルとして定番化しているものらしく、ファッション界に近年ネオ・グランジと言う仕掛けもあったりする。
ただ、当時は「グランジ」とは、反商業主義的で、無骨で、そっけなく、飾らない、ローファイ且つ本物志向のものであり、その意匠をアレンジとして取り入れる、というような器用さとは根本から相反する概念とされていた。
グランジ・アーティストとは、今思えば、多かれ少なかれそういったグランジ気質を身につけ、演じ、結果として大金を稼いだ者たちの事であり、むしろ上手にグランジを演じられない不器用な人たち(モトリー・クルーとか)にこそ不遇な時代だったと言えるのは皮肉な事だ。
ともかく、そもそもちゃんと編曲されていないような生々しさこそがグランジの真髄なので、「グランジ」と「アレンジ」自体がかなり相性の悪い概念と言えた。


しかしそれでいて、自分はこの「BOINGO」という、巧みなアレンジで、グランジオルタナティブ・ロックのニュアンスを描いたアルバムが嫌いではなかった。
というより、ニルヴァーナ以外の他のどのグランジ・アーティストの、どの作品よりも好きだった。
否定しがたいその事実はまた、自分にとって何かしら大切な事であるようにも感じていた。
何らかのメッセージのようなものが、このアルバムを通して自分宛に発せられているような、そんな予感のようなものがあって、繰り返し聴いた。
唯一音楽の趣味が合う友人に聴かせて「まさに商業グランジ」的な、唾棄すべき作品だと言われたりもした。
(ちなみに彼のフェイバリット・アーティストはベックだった)



ビッグ・アイズ」で久しぶりにダニー・エルフマンの音楽を耳にして、その当時、ちゃんと把握できなかった「メッセージ」とは、クラフトマンシップ、音楽づくりの倫理にまつわる彼の考え方なのかなと、ふと考えた。


アルバム「BOINGO」における「グランジ」の取り扱いについて考える。
幾分繰り返しっぽくなるが、「グランジ」はあくまでジャンルではなく精神性なので、それが流行っているからといって取り入れようとすると、批判されたり、無視されたりしがちなものである。レゲエのリズムを取り入れるとか、ブレイクビーツを導入するとかとはだいぶ勝手が違って、もう一段階奥深い、アティテュードに関するムーブメントであり、ベテランが流行に乗って急にグランジ風になったりするのはダサい事だった。(但しニール・ヤングは元祖グランジということで特例OKだった)
少なくとも、カバンに常にカート・コバーン評伝「病んだ魂」を持ち歩いていた当時の自分にとって世の中は、そういう風に見えていた。
「BOINGO」のダニー・エルフマンは、そういった事情に疎いわけではない。
むしろ深く理解し、考えた結論としての、このアルバムだと思う。
それは「意匠としてのグランジ」という挑戦しがいのある難題を、作曲家としていかに解決するか、ということである。
ただ、ここまでなら、それなりに良くある話かもしれない。「天然」「無垢」「無骨」のトレンド化という矛盾を、外部の人間がその技術をもって作品として昇華する、というストーリーである。
自分にとって重要なのは、そういった理解の上で「BOINGO」を聴いてもなぜか、批評的な、作られたような感じが全くしないということである。
それがこの作品の最大の魅力だった。
その理由については長らく謎だったが、先日映画を見ながら思ったのは、この作品の中には冷徹なエルフマンと、熱狂しながら作っているエルフマンとが同居しているからではないか、ということだ。
楽曲の、精緻なフェイク・グランジとでも言えるような構造と、ダニー・エルフマンのリアルなグランジ愛とは拮抗していて、片方が片方を上回る事はない。
できる限り冷たいグラスに、できる限り熱い魂を注ぎ込んでいながら、グラスが割れる事もなければ、中身が冷める事もない。
そこにはメタな視点でのバランス感覚のようなものが存在する。


客観的な冷たさと、主観的な熱さが拮抗してこそ得られる表現の強度というものがあるとして、その事を初めて知ったのが、このアルバムだった。
冷たく客観的であろうとする試みが、時間をかけてその人間の熱自体も冷ましていってしまう事はよくあるが、冷ました状態で、なお熱くないなら、元々そんなに大した熱でもなかったという考え方もあり、自分にとってはその方がリアルだ。
カート・コバーンが遺書で引用したニール・ヤングの歌詞は it's better to burn out than to fade away 「徐々に消えていくなら燃え尽きた方がマシ」だったが、必ずしもそんなに単純な二択ばかりではないと、今は思う。



オインゴ・ボインゴといえばやはり、80年代の諸作が代表作とされており、「BOINGO」というアルバムの真価は少なくとも日本では殆ど理解されていないように思える。(現在廃盤で、amazonで中古が1円で買える)
しかし、既存のスタイルを引用、時には剽窃しながら、なおかつ魂のこもった音楽を作るという、矛盾した、一見不可能にも思えるゲームの楽しみが、これほどわかりやすく刻まれた作品は、他にそんなに無いのではないだろうか。
エルフマンは「BOINGO」という作品を通じて、彼の考えるクラフトマンシップ、作家の倫理と理想を語りかけた。
それは職人性と真逆のベクトルを持つ「グランジ」というムーブメントをお題として取り上げるからこそ、可能な事であり、そのチャンスはこの一度きりしかなかった。
それは孤独な戦いである。
当時のダニー・エルフマンの心はカート・コバーンと同程度に孤独だったかもしれないし、今でも実はそうかもしれない。



冒頭に映画とは別の話と書いたが、結局のところ、この話は「ビッグ・アイズ」に通じるものなのかもしれない。
ビッグ・アイズ」は芸術における「本物」とは何か?を巡る話だった。
おそらくその問題について、ティム・バートン同様、ダニーエルフマンも相当深く考えた事がある。


ちなみにキム・ゴードン自伝によれば、ダニー・エルフマンとキム・ゴードンは高校か大学が同じか何かで付き合っていたらしいので、そもそも人脈的にグランジ界隈と全然遠くないのかもしれない。それだけに自身の立ち位置と合わせて、そのムーブメントについては思うところも大きかったのではないかとも思う。




90年代ロックと60年代ロックの親和性についてわかりやすく描いた作品だと思う。オアシスとだいたい同時期に、だいたい似たアレンジでビートルズのI am the walrusをカバーしている。