Dangerous Mind

Dangerous Mind

水越スッパ氏のスッパバンドの初音源を5月にレコーディング→ミックスしてたんですが、今朝完成しました。明らかに唯一無二な彼らの音楽性を詰め込んだ名盤になりました。7/7の円盤ジャンボリー(彼らは6Fトリです)から販売するようなので、是非みなさん買って聴いてください。そして、本格的に日記の書き方がわからなくなり告知と宣伝だけのハンパな中小企業の部長ブログみたいになりつつありますが、まあ、俺も含めて地球上の誰も気にしてないっつーことで、今年は夏は50度になるのだろうか、ならないのだろうか。いかにして熱を減らすかということに音楽でトライした結果、逆に電気を大量に消費して二酸化炭素を増やす、そんなライフスタイルはいやだ!と十年くらい前に思いつつも、実際のところ何の対策も立てられない、洗剤を入れ忘れたまま三十分間まわし続けてしまった洗濯機のようにガッカリでほのぼのな毎日を、今日からあらためてこの場所に記し続けて行こう、と思ったわけです。それでは日本ロックフェスで会いましょう!


あと、郷里の友人Sから先日リリースされた「国ドットコム」についての素晴らしい批評文をいただいたので、ここに掲載させてもらいます。
『思えば、狩生が叫んだり、ヒステリーに陥っている場面というのはまだ観たことがなかったわけで、なんだか唐突にフレンドリーな状況なのである。これはライブを見ている人全てに対して、一方的に心を開いているように見える。しかし映像作品として、そんな部分のみを集約した結果、彼が「発狂」という段階に限りなく近づいていくその過程には戦慄を禁じえなかった。これは誰にでもできることでは勿論ない、そしてできる必要も全くないのだ。
国の本質が「全く何もない状態から始める」というのは理解していたが、ステージで身ぐるみ剥された人間は、ただ発狂するという事実を目の当たりにして、いかに狩生が途方もない賭けに出ているか、どれだけサドマゾなのかと驚嘆せずにはいられない。そういう「追い込まれ」をエネルギーに代えた一本目は、まだ笑ってみることもできるが(それでも私の足は震えていた)、二発目は何故か魂が解放されたような伸びやかさに満ちており、何かが憑依しているようにも見えてきた。こうなると、もはや笑うことすらできない。この場合、何よりも追い詰められるのは観ている側であり、狩生そのものが世界から消えて行く瞬間である。それを裏付けるかのように、DJじゃみへんが向こうの世界の国からあいさつをするわけで、よく分からないが、めっぽう怖い。 これは恐怖映画なのか?カサベテス監督の「壊れゆく女」という映画は、文字通り女が壊れていく映画だったが、ジェットコースター級のスピードとスリルで壊れゆく狩生は、際限なく事故死、蘇生する。(狩生がF1レーサーだとしたら、炎上→タイヤ交換を繰り返す。)その意味で、これはパニック映画であり、ゾンビ映画であり、カタストロフィ映画である(狩生徒手空拳で挑む相手を、人類の不安の象徴である超自然や巨大隕石、または核戦争に置き換えてみても不足ないだろう。そもそも狩生は個人の不安から生み出された幻と対決しているようにも見えるからだ。そういう意味でまさに個人的カタストロフィの様相を呈している)。しかし三本目において、こともあろうか小規模ながらも、異常な興奮と熱気に包まれ、コールアンドレスポンス、果ては胴上げと、大団円のうちに幕を閉じる。もはや観ている側と狩生界が完全に逆転し、発狂しているのは、我々のほうかもしれないという不安すら抱かせてしまうのだ。これはもはや「国策映画」と呼ばなければならないだろう。ここで「国」という名称が偶然でないことに気付き、我々はこれがワールドミュージックの一つであることを知る。(国を作ったミュージシャンは狩生フェラ・クティしか知らない!)
ちなみに私はこの作品を観るとき、どういうわけかゴダールを想起してしまった。しかし、よく似ているとは思わないだろうか?意味不明のおしゃべり、唐突に切れる音楽、ハイテンションなトーク・・・。そういえば黒沢清ゴダールについて明快な文章を書いていた。それは、ゴダール作品は「人間を撮った動物映画である」という解釈である。「カメラを向けられた俳優(人間)はただ追い詰められ、何か言葉を発する。」というものだったと思う。なんだかひどく納得してしまったのを覚えている。それと「国ドットコム」がどういう関係にあるのかは、全く分からないのだが、「動物映画」と言われると、不思議と心が穏やかになっていく気がするので、あえて私はこの映画をそう呼ぶことで、文章を終わりたい。 』