Dangerous Mind

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新宿のある中華料理屋に「セノリ炒め」というメニューがあって、セノリとは一体何かと思ったら単なるセロリ炒めだったわけだが、確かに「ノ」と「ロ」の間には、実はほんの薄皮一枚くらいの違いしかない事を私はたまたま知っていた。
というのも、その一週間くらい前に、あるナレーションの部分的な修正をしなくてはいけなくて、それが「わけのない」がどうしても「わけろない」に聞こえてしまうというものだったのだ。どうやって修正するかというと、「の」の発音の先頭0.01秒くらいに舌が口内の上部に接してから離れる瞬間に出る「トッ」みたいな音が隠れているので、その部分のボリュームを10dbくらい上げる。そこを上げると段々、「ろ」になってしまっていた発音が「の」になってくる。逆にその「トッ」を下げれば、また「ろ」に戻っていく。
この、ごくごく微小な違いが「の」と「ろ」の違いで、それ以外は殆ど同じ音声と言ってよい。
この「トッ」は本当にごく短い時間だけ存在するものなので、ある文化圏では認識されても、他の文化圏では差異と認められなかったりする。日本語ネイティブの人が皆これを聞いた瞬間に、別々の音声として脳内で処理していることは、あらためて驚くべき事だ。
よく人は「耳が良い」「耳が悪い」などというが、日常的に同じ言語を使い続けることで、この極小の差異を誰もが意識せずに認識できるようになる事を考えると、耳の良さというのは後天的なものだという事がわかる。
他の例で言えば、例えば「ぱ」と「ば」も、発音の先頭の物凄く微小な違い(これも0.01秒くらい)だけで区別される。
楽器の話で言えば、0.01秒という単位でアタックに意識的な違いを出せる奏者は相当な達人である。



一応付記しておくが、これは日本語の発音は中国人には認識できないような繊細さがあり素晴らしい、なので日本スゴイ、的なある種の狭隘な価値観に基づくような馬鹿な話ではなく(社会の大多数のまともな人々と同様に、自分もそういうのに日々うんざりさせられながら生活しているので、いきおい言葉も強くなるわけだが)、ある文化圏で、ごく当たり前のように誰もができる事が、実は、無意識の訓練の蓄積によって後天的に獲得された鋭敏な能力であったりする、という話である。
逆に、他言語では明確に違いがあるとされる「L」と「R」や、「B」と「V」の違いに日本人は鈍感で、自分もほぼわからないので、今後「Light」を「Right」に聞こえるようにして欲しいというオーダーが来ても対応できないだろう。大学で習った中国語の四声も今ひとつ感覚がつかめなかったし、アフリカでは「ン」で始まる言葉が沢山ある事を知識としては知っているが、向こうに行って自分の「ン」がアフリカの「ン」と同じものとして通じる事はおそらくない。
数年前に中国人の女性から言われた「謝謝」を思い出す。その「謝謝」はただの何でもない挨拶でありながら、ごくごく短い歌のようで、今まで聞いたどの言語とも違う響きの、何かしら特別な音だった。
あれは、ネイティブ以外には容易に獲得できない発音の代表だろう。