Dangerous Mind

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選挙

選挙について、少しだけ言いたいことがある。
なぜ共産党は全国ほぼ全ての選挙区に候補者を擁立したのだろう。
与党の暴走・一党独裁をストップさせる等と、勇ましいほどの語気で語っていたのに、結果として自民党をアシストする働きをしていないか。
わかりやすい例として、北海道7区での得票数を比較すると
伊東 良孝(自民) 72,281 当選
鈴木 貴子(民主) 72,056 落選(比例で復活)
石川 明美(共産) 13,218 落選
となっている。
一般的な傾向として、共産党に投票した人の中で、第二候補として自民党を支持する人は少ないので、もし共産党の候補者が出馬していなければ、自民が落選した可能性は高い。
ここまでの僅差ではなくても、類似した結果の選挙区が少なからずある。(http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2014/)
自分の住む東京19区でも
松本 洋平(自民)  107,608 当選
末松 義規(民主)  87,584 落選
小泉 民未嗣(共産) 36,878 落選
山田 宏(次世代)   30,658 落選
少々差はあるにせよ、共産票が分散すれば、或いは、とは思わせられる。
実際に全国で唯一、共産党が候補者調整をして4区のうち1区でしか候補者を立てなかった沖縄では、自民党は一つも議席をとれなかったのである。
小選挙区の得票数と獲得議席数を比較すると、共産党は全投票数における13.31%にあたる7,002,226票を得ていながら、獲得議席数はたったの1である。
比較して、公明党はたった1.45%の765,390票なのに、9議席をとっている。
共産党が今回獲得した21議席のうち、20議席比例代表での獲得数である。
要するに共産党議席は比例頼みなのだから、せいぜい50くらいの候補者を比例に重点をおいて全国に擁立すれば良かったという事になる。
そうすれば与党の議席も、もう幾分減少し、かといって共産党議席獲得数が目減りするわけでもなく、目指すところに一番近かったのではないだろうか。
このことが選挙のプロである共産党の人たちに、まったく予想できなかった筈はないと思う。
でも共産党は、今回の選挙でほぼ全ての選挙区に291人もの候補者を立ててしまった。
ストレートに、それは何故なのかと考えてしまう。
ここで自民と共産は実は裏で結託していて云々などと、陰謀論めいた結論に行くのは思考放棄だ。
問題はもっと根が深いと思う。
無い頭で自分なりに考えるに、「頑張る」という事の概念が、党も有権者も、お互いにズレているんじゃないかなと思えてきた。
「頑張り」と聞いたときに、何を思い浮かべるだろうか。
例えば小学校のプールで、泳げない子供が周囲を顧みる余裕もなく、ひたすら犬掻きに似たクロールでバシャバシャ、どうにか必死に25メートルを泳ぎ切った。
頑張ったねと先生に褒めてもらえる。ひょっとしたら友達も褒めてくれるかもしれない。
でも、政治や選挙の世界で、もっと言ってしまえば大人の世界で必要とされる頑張りというのは、基本的にはこの種の頑張りではないと思う。その泳ぎには、他の多くの人々の生活や未来が関わっているのである。時には足をついたり、浮き輪を使っても良いから、さっさと25メートル泳いでほしい時もある。それにプールの底に足をつけば、周囲の状況を見渡す余裕も生まれる。
問題に思っているのは、前者の意味での、ある種の自己満足にも似た頑張りの美学のようなものを重視する人たちの期待に応えるために、共産党は到底当選するはずもないような選挙区にまでも、多くの労力と予算を割いて律儀に候補者を擁立しなければならなかったのではないだろうかということである。
でも何だかそれは本来の目的からズレているし、外部から見ていると、支持者と党との間に無意味のループが生じているだけのように思える。
そこのところを有権者に対して上手に説明したうえで、党の主張に対して最も有効な結果が生じるような投票に誘導するような手段は無かったのだろうか。
ニュースで、笑顔で候補者の名前に花なんかつけている共産党の事務所の映像が流れて、自分はそう思った。

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終わった選挙について、どうしてこうくどくど書いているかというと、これは選挙だとか政治だとかを越えて重要な事に思えるからである。
何が重要なのか。
例えば選挙期間に限らず、友人、知人の中で、直接でもネット上の発言でも、極端な事をいう人がたまにいる。
自分もそういう物言いをする事はあるので気持ちはわかる。
ある政治家や政党について
「○○辞めろ」
「○○消えろ」
「死ね」
みたいな事を言ったり書いたりすれば、幾分気持ちもスーっとするし、何より自分の立場をその発言によって周囲に示すことができる。喜んだり、賛同してくれる人だっている事だろう。
でもそれって反面、結構大きな落とし穴なのではないだろうか。
なぜなら、もし自分の考えを少しでも世の中に広めたいのであれば、自分と同じ立場の人間よりも、自分と異なったり、対立する立場の人間にこそ自分の意見を聞いてもらわなくてはならないからである。
しかし○○さんを支持している人が「○○死ね」と言っている人の意見を、以後聞いてみようと思うだろうか。
そうすると「○○辞めろ」という発言は、本当に辞めてほしいというよりは、単なる自己アピールや自己満足、また○○さんを支持している人達から自分を遠ざけ、自身を守るようなニュアンスまでをも含む発言なのかなと思えてきてしまう。
こうした発言が増加すれば、意見の異なる層同士の距離感は、同じ国にいながらにして、ますます離れていく。
違った意見を持つ人たちが分断されて、お互いの発言に耳を傾けなくなれば、結果としてメディアを押さえた者や、常に一定数の組織票を見込める者を利することになってしまう。そんなつもりでやっていなくても、そういう結果になってしまう。
自分には、何だかそんな自己表現に近いような極端なかたちでの意見の表明と、共産党が擁立した極端な候補者数とが、その効用を含めてどこかでダブって見えてきてしまったのである。
政治や選挙というのはやはり自己表現の場ではなく、他人にも含めて責任のある行為なので、そこを混同しないように行動するよう気をつける必要があると思うのだ。
ここから強引に音楽の話にするなら(別にそんな必要は無いが)、例えば、sex pistolsのanarchy in the u.k.を聴いたら、最初は政治的主義主張を自己表現に昇華していてかっこいい、とか思うかもしれないけど、よくよく聴いているうちに、そういう○○イズムや、××主義みたいなもの、それに振り回される事に対する皮肉やら虚無のようなものについて歌っているのではないかという、最初と真逆の可能性に思い当たり、その事実の深みに気付く、というような事なのかなと思う。(そういう事を想像して聴くと泣ける歌だ。)
ほぼ一党独裁のような体制が仕上がってしまったらしい今回の選挙後には、そういう風に自分だけでなくて周囲を含めて物事を考える姿勢が強くなっていかないと、一般の人どうしの分断に乗じた形で現状がますますエスカレートしていく(そしていずれ破綻が生じる)だけなのかなと思っている。