Dangerous Mind

Dangerous Mind

映画のエンドロールを見ながら考えたこと

ソフィア・コッポラの「ブリングリング」を家でDVDで見てたらエンドロールでフランク・オーシャンの曲がかかるんだけど、何かオリジナル・バージョンに比べて、オケに変なコンプレッサーがかかってるようなレベルの凸凹的な違和感があって、そういえば序盤の方でかかるEDMみたいな曲も、さすがに原曲こんなに歪んでないんじゃないかな、っていうくらい歪んでる曲があって、まあそれはその元の曲を知らないんでなんとも言えないんだが、そういう事があった、と。で、映画はこじつけかもしれないけど、まさに現代的なコンプレッションと現代的な歪みというテーマがあるような感じがしないでもなかった、まあ気のせいかもしれない。
セレブ宅への侵入、窃盗によって、ある種ねずみ小僧的な人気を得た若者たち、というお題があって、それに対して監督が過度に感情移入してたりしたら、10年、20年前ならまだしも、やっぱり今それを見せられてもシラケるだけで、そんなには魅力を感じないよね、という、何かそういう対象への距離の取り方、かといって突き放すわけでもないよね、という距離の取り方が繊細に計算されていて、その感覚が信頼できるから見てしまうんだなあと思った。昔の作品は、もっと移入している感じがしたんだ、ヴァージン・スーサイズで自殺する女の子たちは、監督から何かを託されている感じがした(おそらく一生自分にはわからない何か)。そしてその描き出し方は、正しい事のように見えた。
新作はそれに比較するとかなり、描く対象に距離をとっていて、しかしそれによって対象への共感を失うわけでもなく、むしろ共感を失わないために敢えて取らざるをえない分だけ距離をとっているように見えたりもする。そして、それがまた正しい事であるように思えてしまう。そう考えると一個前のSOMEWHEREは個人的にちょっと良くわからない部分もあった。
正しい、正しくないというと語弊があるかもしれないけど、やはりその時代時代で、ファッションやら音楽やら美術やら、そういうパッとわかりやすく目につきやすい時代的な要素よりも深いところで、それをどう描くか、その対象についてどういう距離感で取り組むか、というところにその人なりの個性を越えて、時代性みたいなもの、それに対する正解不正解を感じたりもする。不思議なことに、その描写のスタンスがその時代を反映したものであればあるほど、その作品は時代を越えたりする。ような気もする。