Dangerous Mind

Dangerous Mind

諸事情で自分のホームページを移転させて以来、自分のページからここの日記へのアクセスが劇的に減りました。その前にも容量足りなかったりなんだったりで年内で既に3回くらい移転していて、しかもそのたびに「移転しました」みたいなページをサーバーに残せずにいる(すべて自分の大雑把と適当のせいで、なんか新しいページをつくることができない状態になってしまう)ので当然っちゃあ、当然。なので、最近世間で評判の学校裏サイトというものにシンパシーを感じ(そういうサイトもまた、すぐ移転するらしい)、さっそく検索して探して見たけど、別に部外者が見てもあんまり面白くなかった。超残念だ。
で、最近は自分で見る用に、非公開の日記を書いている。というか、日記というものはそもそも公開を前提としない、プライベートな書きものなのだった。人に見られるということを考えないと、箇条書きでもいいし、文章むちゃくちゃでも後で見て理解できる水準を保っていればよいし、内容についても特に思ったままのことを気にせずに書けるので、とてもラクだ。
そういえば、昔、たしか小学校のころ、担任の女の先生が、その先生の知り合いでいつもにこやかで、周りの人に親切で、誰からも好かれるようなタイプの人が事故か病気で急に亡くなってしまって、その人のお葬式をしたところ、周囲に対しての罵詈雑言やら悪意のこもった呪いの言葉のようなものがたくさん書かれた日記が出てきて超ショックだった、そういうのは良くないね、心の中からキレイな人間になりましょう、みたいな話をしたことがあって、それは自分にとって、とても違和感のある話だった。人間はそういう負の感情から逃れることはできないのではないか、かといってそれを他人にぶつけるよりは、日記だとか、王様の床屋だったら地面の穴だとか、そういうものにぶつけて発散することで、その人は何とか現実に折り合いつけて生きてきてたんだろう、と思った。その日記は、その人の心と、心から切り離された日常生活との格闘の記録であって、無茶苦茶大変な人生だったろうにと思い、なのにそんな貧困な感想を自分の生徒の前で道徳話みたいに話しちゃうような友人とかしかいなくて、それだから日記にいくしかなかったんだろうに、と思った。今だったら、それがひょっとしたらインターネットとかにいっちゃうかもしれないけど、ネットは生じっか、他人の共感とかが得られてしまう可能性があるから、その人にとってはダメなのかもしれない。何の反応も返ってくる見込みがない地面の穴みたいなものだって必要なのだと思ったのだけど、確かあの童話も結局穴の中に封じ込められたはずの床屋の声が、いつの間にか世の中に出てきちゃうのよね。

東伏見駅にて