Dangerous Mind

Dangerous Mind

ひとつだけでいいからわかってほしい事

ひとつだけでいいからわかってほしい事
もちろん大柴君以外の友人・知人が亡くなっても、大柴君と同じくらい、あるいはそれ以上に悲しかったり、悔しかったりもする事もあるだろうけど、そういう悲しい、悔しいという気持ちと、今回の本やCDの制作はほとんど無関係であること。ただただ、自分が生きてきた中でたまたま出会うことができた素晴らしいものが、このまま埋もれていってしまうとしたら世界にとって損失だと思うから、全くのボランティアで、むしろ全くの持ち出しでやっているわけで、友人のアーティストが若くして亡くなったから、可哀想な彼のために作品をまとめてあげましょう、みたいなお涙頂戴のみっともないブツとは根本的に物が違うんだということ。そのことをはじめから理解する気もなく、偽善だの、茶番だのと言って大暴れしてカメラの前で目立とうとする人がいること。それがただただみっともなく、くだらなく、また自分の感性とは相容れない事に思え、自分はウンザリしていた。でもそうやって人が大暴れすればネット上での注目度が上がるみたいで、結果多くの人が見るきっかけになったということ。だから結果としてはOKなんで良かったんじゃないでしょうか、といういかにもイマっぽい風潮。確かにそうなんでしょう、でもなんでも結果が大事、結果のために役立つ事が大事で、そこに至るまでに自分がリアルに感じたことは犠牲にしても良いと思っているなら、自分はそもそも今のような生き方をしてないし、彼の作品について思いを巡らして、自分なりに捉えようとするような機会もまたなかった事でしょう、ということ。そういう違和感。
別に何事も起こらず無難に進行して、ほどほどの人数が見てればその方が良かった、とかそういう事が言いたいのではない。
むしろ大暴れがネットで拡散してたくさんの人が見るきっかけになって本当に良かったよ。
ただ、そういう違和感を覚えた人間だって、あの現場に少なくとも一人はいましたよ、というちょっとした注釈なり付記が存在する方が、出来事としてはより豊かなのかなと思って書いている。


                          ・


この本は自分にとってはとても大きなものです。
実際に忙しく動いていたのは佐藤君と中西さん、膨大な資料を提供してくれた遺族、デザインを手伝ってくれた連君や三浦君、宮嶋君、他数人の関係者、大勢の執筆者で、自分はその都度あれこれ思いつきの意見を言って、最後にデータをまとめたりするのを手伝ってただけだけど、それでも色々とヘヴィーな作業だったのは間違いない。
内容的に大柴万歳、大柴ありがとう、みたいな物ばかりでは決してない。
むしろ、彼のもっていたとても悪い部分、どうしようもない悪の部分を的確に抉った表現が含まれている。
それは大口弦人の40000字にも及ぶ、ほとんど小説と呼んでいい追悼文で、彼がこれを書いてくれた事によって、この本の価値は確保された。
彼の文章によって「本」というより「書物」になった、というのは独特でわかりにくい表現かもしれないですが、わかってもらえますでしょうか。
その文章は、すでに死んでいる人間を二度殺すような、とても厳しいものです。
これまで自分が読んだものの中で一番厳しい。
でも、それがあるから大柴は今でも生きているんだなと思える。もう一度殺さなければいけないほど、弦人の中では奴は生きている。


友人で死んだ人間には全く興味がない、と事あるごとに繰り返す人がいる。
でも生きている人間も死んでいる人間も別に変わりはないんじゃないかね、というのが最近の自分の意見だ。そもそも現時点で目の前にいない人間がいま本当に生きているか、死んでいるかなんて、その瞬間には確認しようがないし、生死を越えて自分に対して訴えかけてくるものがあるのなら、生きてようが死んでようが、自分にとってはその時点では存在している、ということであって、逆に言えばその存在が実体を伴っているかいないかというのは、どこまでいっても二次的な問題でしかないように思える。


大柴がいま生きているとしても、きっと年に数回も会わなかっただろう。まったく会わず、特に大柴の事を真剣に考えることもないまま、いつか不意に自分の人生の方が先に終わってしまう、という可能性だってあっただろう。
この仮定が自分にとって何を意味するのか、本当のところはまだあまりわからないまま書いているわけだけど。




もう終わった大騒ぎだし、忘れようと思っていたのだけど、どうしてもモヤモヤしてしまって吐き出さないと日々の作業に集中できないので、また多分そういう風に仲間内の友情なり愛なり思い入れだけで、自分(達)が動いているのだと他の人にも思われているのだとしたら、そのことに対しては「そこはちょっと違うんですよ」と表明する義務が制作者としてあると思うので、こんなエモーショナルな文章を37にもなって全然書きたくないけど、まあ書かざるをえなかった。
まあいま暇だし、書くきっかけになって良かったのかもしれない。(結果として)


とにかく繰り返しになりますが、この本はお涙頂戴の友情物語では決してありません。
もっと複雑な本です。
本文中の弦人の表現を借りるなら、大柴陽介の存在自体が周囲の人間にとっては究極の詩であり、その詩についてのそれぞれの解釈がただただ何百ページにもわたって書かれ続けている、そういう特殊な書なんじゃないかと思います。

return of サイケデリック武勇伝 / 大柴陽介物語
6月下旬刊行
情報
http://p-buyuden.tumblr.com
予約受付中
http://diskunion.net/jp/ct/news/article/2/59469